毛細血管の枝枝


今年一度目の井の頭公園散歩をしました。
よく冷える日でしたが、その分空が遠くまで澄んでいました。
上を仰ぐと、微細な枝がまるで硝子にはいったひびのように見えます。
手を伸ばしたら崩れてくるかも知れません。

向こうにずらっと居並ぶはスワン・ボートのお尻です。
大友良英さんが来月ここで日没ライブをするようですが、
スワンだったらいいのになあと思います。

遠き山に日は落ちつつも木々のトンネルから顔を覗かせる、
太陽の大らかさと茶目っ気がすてき。

鴨がいっぱい泳いでいました。
うしろに続く水紋がだわだわ広がって映る景色が縮れていきます。

見る間に空の青みが大方消えて、金色の縁取りが出来てきます。
じわじわとリュウグウノツカイのような雲が近寄ってきていますが、
回遊しているのでしょう。
諸星大二郎栞と紙魚子」に出てくる夜の魚みたいです。

橋のたもとの外灯はきらきらで宝石みたいでした。

池の向こう岸を見ると、
木々の枝が細かに張り巡らされて毛細血管みたいでした。
手前のしだれざくらの枝はおいでおいでしているし、
きれいだけどなんだかちょっと怖かったです。
この手に桃色の花がたわわに生るのももうじきです。
春よ、こい。

調神社

新しい年の初詣は、かねてから焦がれていた浦和の調神社へ行きました。
調の字は「つきのみや」と読みます。
この事から月に使えるものとして兎がモチーフになっている神社です。
卯年である今年こそ機は熟したのだと思い、
きんと晴れた寒い日に訪ねゆきました。
立派な巨木に囲まれて、静かに時が流れている場所です。



狛犬ではなくて狛うさぎが出迎えてくれます。
子うさぎをなでなで守っているようで可愛いのでした。
ここは鳥居がない入り口を持つ神社としても知られています。

口からちょろちょろ、巨大うさぎ石の正体は?
手水場のマーライオンうさなのです。
どっしりつるつるしたうさぎと向き合って己の心を清めるのでした。
お清めする人達をちょっと離れて眺めてみると結構微笑ましい図。

今年も素敵な年になりますように。うさ頼み。
お参りのあと上を見上げると本道の木彫りが美しいことに気付きました。
荒波に乗る精悍な子たちは野生的趣きを持っています。

素彫りにもかかわらずこの目ヂカラたるや!
西日の光で力強く浮き出して、今にも動き出しそうでした。

池の真ん中ではぴゅーっと勢い良く吹き出しています。
隣りの白兎は一体何者なのか謎が謎を呼びますが…。


元日はさぞかし大賑わいだったことでしょうが、
ひっそりとうさぎが佇んでいる可愛らしくも落ち着いた神社で、良かった。
始めに、巨木と書きましたが、一つ一つの木もそれは見事なものです。
根元が隆々こぶだらけになったようなぬしたちに見守られて、
うさぎも月もますます輝きを増すことでしょう。
私は珍しくおみくじを引いたところ大吉を当てまして、
書かれていた言葉が気に入ったのでここに写してみようと思います。
「谷風に とくる氷のひまごとに うちいづる浪や 春のはつ花」
前途洋々なり、なんて云われたらそれはやっぱり嬉しくなりますね。


浦和へ来たらまた訪れたい神社です。

そのままさいたま新都心へガタゴト電車に揺られて向かいます。
この日、とても夕焼けがすばらしかったです。
空が燃えているようでなんだか怖いくらいでした。
本当はカメラを向ける行為も馬鹿馬鹿しく感じられるほどでした。
この夕間暮れの先、アルピーノ村というところがあり…、

美味しいクロワッサンやパート・ド・フリュイを求めて来たのでした。
バターの香りも芳しいさくさくほろほろのパンは、
知らない土地で心細い気持ちを一気に勇気付けてくれそうでした。


普段乗らない路線というだけで小旅行の気分で、楽しかったです。

卯歳年賀状の展

墨田くんだりまで出かけてSAKURA TERRACE、
「卯歳年賀状と西洋のカード展」を見に行きました。
紙のプロが企てる紙もの展はとても良いんです。
お代も無しに文化遺産を山盛りこの目で見られるのです。



うさのするりとしなやかな肢体、妙な躍動感があります。
こちらまで「よーし飛び跳ねていっちゃうぞ」って気持ちになる。
橙と朱色のあいのこのような独特の色がまた目に染みます。

これぞグッド・デザイン、ジャパニーズ・クールなり。
染み入る青の広重的色使いに背筋がしゃっきりとします。
このシルエットは狐の型では…?と思ったそこのあなた、
鼻先に丸みを帯びると兎になるのですよ、多分ね。

これがもう悶える可愛さだったのでした。
船頭さんのとぼけた双眼鏡といい、最後尾のつまんなさそうな子といい。
飛行船の雑な作りも笑いを誘う…こんな葉書届いたら嬉しいだろうなあ!

私はどうもひしめき合う小動物集合体に弱いようです。
お耳をわさわさ頑張るこっちのうさたちは、目が結構本気でござんした。

兎とは関係ないけれど目が離せなかった一枚です。
踊り子の足がむりやり年数字になっている可笑しな絵なのでした。
左の人はまあ良しとしても、いや輪の部分が不可解ですけど、
右の人の右足に到っては足首すらないという。
どんなバランス感覚をお持ちなのか、
右の人にも時代にも問いかけざるを得ない天晴れ1907年よ!


日本の戦前デザインが好きなのでそれをじっくり楽しみましたが、
西洋のニューイヤーカードも、可愛らしいものが沢山でした。
干支が無いから年によっての差がない分、
クローバーや豚や天使など幸福の象徴がふんだんに盛り込まれています。
お国が現れて面白いものです。
可愛いものは手元におきたいもの。
そんな訳で撮影許可を頂けたこともありがたかったです。

自然のひと掬い

どんなに雪が美しいものでも、
三日も閉じ込められているとそうも言えなくなってくる。
でも東京に帰ってきて今、
雪はきれいだったなあって身勝手に思う。


年末年始は実家に帰り、ゆったりのんびりと過ごしました。
今思えば良いタイミングに便を予約できて帰れたものです。
30日の夜から雪がしんしん降り始め、
明けて31日にはもう一面銀世界でありました。
全国版ニュースに流れるほどの記録的な豪雪だとかで、
交通麻痺に巻き込まれた人たちはお気の毒でしたが、
変貌した外の景色はちょっと素敵なものでもありました。
私はせっせと雪かきをして、
カニの捌き方を母に習って料理をして過ごしました。


都会とは違って、
まだこちらではお正月は特別感がひしめいています。
空気がぴんと張り詰めているのは、
雪が音を吸うので静かなせいもあるかもしれません。
ストーブの匂いや夜間が湯気を立たせる音、しゅうしゅう。
実家に帰ってくると自ら何か音楽をかける事はしなくなります。
生活音がいつもと違って面白いのでそれに耳を傾けるばかり。
あとは、
数の子の皮を剥いたり湯たんぽを変えたり石油を足したりと、
くるくる動き回っているから閑がないのでした。
じっとするのは寝る前の読書時間くらいです。


大雪は依然としてでん、と居座っています。
計画していた小学生時代の通学路を追体験(散歩)もできず、
少々飽き飽きしてきた頃に年始の挨拶参りへ向かいます。

親戚のお兄ちゃんが、
縁日で捕った金魚の産んだ卵を全て孵化させたらしい。

このおびただしい群れの中に、自然を垣間見る事ができます。
目がなかったりエラがなかったり骨が曲がっていたりと、
奇形の金魚が沢山いるのでした。
「どうしてなの?」と聞いたら、
「選別していない自然のひと掬いとはそういうもんだ」とのこと。
色眼鏡の要らない自然のひと掬いは面白く、
雪よりも美しかったです。
私はせっかくのお酒の席、会話の輪にも加わらず、
ずっと金魚を眺めて過ごしました。

こんにちは2011


2011年明けましておめでとうございます。
今年も皆さまにとって実りある1年でありますように。
興味あるものにうさぎのようにぴょんぴょん飛び込んで、
楽しく笑顔で健康に過ごしたいです。
本年もどうぞよろしくお願い致します。


好きなものや人に対して、きちんと好きだと伝えること。
これを怠らないようにして行きたいです。
2010年出会ったものの中で、
特に私に大きく影響を及ぼしたのは、
夜想語りの夜」をはじめとするトークショウや、DOMMUNEでした。
そこで思いを声に出して伝える影響力とリスクを感じました。
私はもともと人と接するのが苦手なので、
それでも生きている以上うまれてしまう考えを発する場として、
長い間ブログを使っています。
ただし生の声のやり取りでいかに血が巡り奇跡が巻き起こるか、
目の当たりにして感動した以上うずうずしていることは事実です。
特にメディア変革の年でもあった2010年でしたから、
考えることも多々ありました。
自分のもっとも不得意とするところだけど、
もう少し外とコミュニケートできるようになれば良いなと思います。
(中学生の新年の抱負レベルですが…)


orionlaboとしての活動は、
年に一回の小さな個展、やっぱりこれが主軸です。
既に散らばった断片的なアイデアが頭の宇宙を浮遊しているので、
閃きの膠できゅっと固まる瞬間を待っています。
そして今年は個展以外にも活動の場を広げたいと思います。
月報を毎月発行すること、
そして可能ならHPを作成して、環境を整えられたらと思っています。
基盤がしっかりしたなら次のステップとして、
別のクリエイターと一緒に何か作りあげることをしてみたいです。
いつも、一人で好きなように作業する楽な方向ばかりなので。
2011年は化学の年だと聞きました。
それならば化学反応でぱちぱち火花飛ばしてみようじゃないか!


今年も良い年になりますように。

心のもちようさ

夜、DOMMUNEにて「じゃがたら大百科」を放送していました。
体が自然に動くようなビートと、飾り立てない歌詞と歌声に、
PCの向こう側から私は拍手を送りました。
もう我慢できないという曲が演奏されたライブ映像を見て、
ぼろぼろ涙がこぼれました。
肩をギュッとひっつめて気をカリカリしていたのが、
それも知らないうちに自分がそうなっていたものが、
大泣きしたことで何か憑きものでも落ちたように気持ちが軽くなりました。
そんな力のある音楽、最近ずっと聞いていなかったな、と思いました。
この日の夜は久しぶりに深く熟睡できたのでした。


じゃがたらは怖いバンドだと思っていたけれど、
鋭いがゆえに優しすぎるほど優しい音楽だと今はしみじみ思います。
ライブに行ったことがある人は皆口を揃えて、
「アケミは目がまっすぐで透明で、本当に美しかったよ。」と言います。


村崎百郎の本(アスペクト)を読んでいるのだけれど、
全く違う人間でありながら根底に流れている血のようなものが、
少し近いような感じを実は受けています。
自分を分析してどう折り合いをつけるか、
戦い、模索してその結果を外に出していけた人という意味で。
DOMMUNEのスタジオ内でも交わされていた、
精神的な病気との狭間で出てくるものが、
かっこいいもの・明るさがあるものだということに対しての
出演者の意見がそれぞれ面白かったです。


音楽は素晴らしかったし、精神論も興味深かったです。
もっとじゃがたらを語ってほしいしもっと映像を見たかったな。
次回があるならば、
フラットな思考の出来る司会者を置いてほしいというのが唯一の願いです。

スプリング・フィーバー

http://www.uplink.co.jp/springfever/
シネマライズロウ・イエ監督による中国映画、
スプリング・フィーバー」を見に行きました。
心の中にまさに嵐を起こさせるような映画でした。
どのシーンも美しく、程好く土臭く、やっぱり美しかった。
数日たった今も様々なことが思い浮かんでは消えてゆきます。
上映後の吉田アミ氏×浅井隆氏のトークがとても面白かったので、
それに併せて思ったことなどを書いてみようと思います。


★純粋なラブストーリーと聞いて一体どんなものを想像するか。
私にとってそれは、
松井良彦監督の「追悼のざわめき」の中の兄妹の関係のようなもの。
他人の想像も及ばない、孤独で閉塞的な極限状態を思い浮かべる。
よって、映画を見た後これは納得できる言葉だと感じた。
人間は移ろいやすくて壊れやすいものだから、
その瞬間に自分を縛り付けていたくなる。
でもそれが他人には破綻に見えたりする。


★登場人物では誰が好きか。
この映画は相関図がなかなか複雑である。
夫の浮気を疑う妻が依頼した探偵と、夫の恋人がゲイの関係になり、
夫はその恋人に別れを告げられた事で自殺を図る。
恋人・探偵・探偵の彼女の3人はあてどもない旅へ、という。
私はアミさんと同じく、
自殺をしてしまう夫ワン・ピンの女々しさが好きだった。
出てくる女性陣よりずっと女性性を持っている男の人だったと思う。


妻のリン・シュエも、女の容赦無い攻撃性と寂しさが顕れていて好きだ。
夫の恋人の職場へ怒鳴り込みに行った時の台詞、
「あんたは男なのよ わかってんの ただじゃおかないからね」は、
ひどいし、ずるいけど、一言一言自分に刺さっていただろうと思う。
そんな事を言ったところで虚空に響くだけというのも、
彼女自身よく分かっているはずだから。


それより探偵ルオ・ハイタオやその彼女リー・ジンの方が怖い。
一見、嵐に巻き込まれ孤独に突き落とされた立場のようだけど…。
その都度自分の立ち位置を読んでよろしくやっている要領のいい人、
みたいに私には見えた。
そのぽっかり感に自分で気付いたから立ち去ったのかな、と思う。
あるいは嵐の中で本当の愛だったことに気づいてしまったのか。


★主人公は誰なのか
映画を見ていて気がついたことの一つに、
おそらく主人公のジャン・チョンの性格が、
だんだんと浮き彫りになってゆくというものがあった。
「登場人物の顔の見分けが付かない」という意見があったそうだが、
それは群像劇的なものからハイライトを当ててゆく
監督の意図に連動して生じる現象だと思う。
実際私も最初はそうだったので、
むしろ逆に監督のこの惹きつける技巧におお、と思ったのだった。
ジャン・チョンは一見大人しい青年で受け身(?)と思わせるんだけど、
徐々にシャツがはだけ始め、サングラスをかけて街を闊歩し、
クラブで煽り、バーで女装して踊りはじめるのだ。
えっそんな人だったの!?と思わせられたのが面白かった。


★中国のリアルな映画
現在の中国でいう幸せの基準に照らし合わせて、とのことだったが、
私はむしろこの諦念渦巻く日本にもぴったりの感覚だと思った。
もはや革命も学生運動微塵もありえない、
省エネルギーで穏便に済ましたい今の日本人なら頷くだろうと。
監督が「ハッピーエンドの映画だ」と言い切ったことについては、
誰もが自分で納得して自分の進路を選んだ結果の終わり方だから、
本当にそうだと思う。


そしてトークのお二人も言っていたように、
分かりやすい感動を今の全日本人が望んでいるわけでなくて、
血の吹き出す傷を、ナイフを待っているのは確かだということ。
J-POPもベストセラーの本も映画も、判を押したように同じだもの。
「ずっと信じていてくれた」とか「会いたい」とか、
「死んでしまって悲しい」とかそんなの当たり前だ、ケッって思う。
涙はそんな単純なものばかりだったかと頭を捻ってしまう。


そういう意味で、鈍りかけている日本人の頭に投石してくれた、
ロウ・イエ監督のスプリング・フィーバーは本当にすごい映画だった。
日常生きていてピリッと何か感じることのある人は、
そのアンテナを大事に磨いていくべきだと思った。
日本社会はそれを磨耗どころか疲労骨折させようとしているようだから。
何より、見終わって幾日たっても脳裏に浮かび上がって
色々考えてしまう映画は、それだけでいい映画だと思う。

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余談だけども、この映画はハンディデジカメでゲリラ撮影されたものです。
その揺れが乗り物酔いの酷い私には結構きつくて、
半分吐き気との闘いでした。うう。
映画館で映画を見るときは体調万全で行くに越した事がないですね。