リリア-4-ever

ユーロスペース、トーキョーノーザンライツフィルムフェスティバル最終日。
ルーカス・ムーディソン監督の「リリア-4-ever」を見にゆく。
私はこの映画を見て2、3日は食欲がなく、まともに寝ることも出来なかった。
剣山を飲み込んだように体の内側がギザギザに傷だらけになった。
今も事あるごとに沁みて傷の存在を主張する。
社会派青春ドラマの傑作なんて銘打ってあったから、
生き生きした瞳の女の子を想像していたら。
皆まさかこうまで重い話とは想定外だったのだろう上映後の場内は静まり返っていた。


「性的搾取の犠牲となるすべての少女達に捧げる」と最後にあった。
親に棄てられた16歳のリリアが、
生きていくために、ただ生きていくために、もがいて幸せを追う話。
私が息詰まりそうになるのは、
救いがないところと実際に起こっている現実だという事である。
この題材で作品として素晴らしくよく出来ていて、
尚且つ傷の癒えない今の私を見ても思惑は圧倒だな、と思ってしまう。
例えば「闇の子供たち」という映画も良くできていたけれど、
あれは誤解を恐れず言えばサービス精神旺盛なエンターテイメントでもあった。
リリア-4-everは一人の女の子に特化して全てを映し出している。
天使の羽をつけて軽やかに舞うリリアは自己の扉を崩壊して開放させた。
それでこそあの目の深い悲しみの色と表情であった。
リリアを演じた(もう演じたという概念が吹き飛ぶほどなんだけど)
オクサナ・アキンシナは当時15歳とのことで、とっても可愛い子だった。


「家のない少女たち」という本を以前読んだことがある。
それは日本の裏社会と性的搾取の事実が書いてあるのだけれど、
映画と全く同じなのだった。
親に愛されなかった子達が求めるのはひたすらな愛で、
それを目敏く捉えては巧みに絡め獲って生きた玩具にするのだった。
自分の想像を絶する事実に言いようのない恐怖がどんどんつのり、
事事物物が足下から崩れてゆき、
ものすごく落ち込んだ。
でも、それ以上に映像で迫る凄まじさを今回は思い知った。
私の中に入り込んだ剣山は何らかの形で外に出してやらなければならない。


このリリア-4-everではデヴュー前のt.A.T.u.の音楽が象徴的に使われている。
今までt.A.T.u.に興味を持ったことはなかったけれどよく合っていた。
同年代の女の子達の熱気がむわっと噴出するああいうロックが、なんとも。
ムーディソン監督は結構な音楽好きだということだったのだが、
影響を受けたものというのが1にthe cure、2にスミス、
とんで7番目にデヴィット・リンチだったかな?
ぼんやりとそれらのフィルターをだぶらせてみるとなるほど分かるような気がする。


北欧の劇場未公開作品が多く集っていた本年のトーキョーノーザンライツは、
観たいものばかりで楽しみにしていたのだけど、
自分自身のバイオリズムの低迷によって多くは阻まれるという結果に。
特に柳下毅一郎トークショウ有りの「アンチクライスト」に行けなかったのは、
かえすがえす残念だなあ。