海辺の男の子

(これから思い出し日記をぽちぽち書いてゆきます)
この頃は心身ともに限界だったので数日間帰省していました。
海へも行きました。
大きな余震の続く時期、東北関東では恐らく近づく者のない場所でしょうが、
こちらはのんびりとした日常のままの日本海でした。
けれども頭の中はその非日常ことばかり考えてしまい、
歩いていても意識は半分浮遊した状態でしたが。

きらきらと潮溜まり、眩しいみなもです。
藻の類いがゆらゆら気持ち良さそうにたなびいています。

一昨日に雪が降ったというのにこの日はぴかぴかの晴れで、
遠くのトドのような岩まで良く見渡せます。

砂の上にてんてん残る足跡は、人もあり、犬もあり、それ以外もあり。

砂丘にぽっかり現れ出でたるのは染み出た海水の水溜りなのでした。
なぜかエメラルドグリーンの怪しい色をしています。

うに拾いに興じまして、私も大小さまざま10個ほどおみやにしました。
なぜ、死ぬと棘が抜けるのでしょう。
カブト虫も、なぜ、死ぬとカブトが脱げるのでしょう。

岩のトンネルをくぐると夏であった。
と言っても過言で無いくらい陽気がもやもや渦巻いていたよ。

日が暮れて、エメラルドグリーン湖は人を吸い寄せる。


ふるさとの海よ永遠なれって考えるのは、
どこの国のどこの海辺であっても共通のものだろう。

小石川植物園


道しるべという名の木に導かれて小石川植物園へゆきました。
梅の盛りには梅を、桜の盛りには桜を、目いっぱい堪能したい。
今日咲いていた花も明日には落ちるかもしれませんから、
毎日が贈りものと思って過ごせたらいいな。

東京大学総合研究博物館に隣接するこの公園は、
目黒にある同じく東大の施設である自然教育園と同じで、
人の手を加え過ぎておらず少々デカダンスなのが良いのです。
自然のままに冬季を迎えた薬草園などは、
正直な話…墓標の並ぶ弔いの地にしか見えなかったけど、

ほら、ふり向けば春はぐんぐん色彩を伴って迫ってきています。
紅白の梅が地面のモスグリーンに映えるさまはとても綺麗です。
この日はちゃんと梅の香りも漂っていたから深呼吸したのでした。

大粒に咲く梅は、ほろほろこぼれて来そうで見るだけで幸せでした。
繊細な花びらの重なりは和菓子のようです。

足下も楽しいです、これはサルノコシカケがこじれちゃって肥大したやつ。

何があったか知らないがすっぱり切り落とされて樹も私も青天の霹靂です。
しかし向上心は棄てていないようだ。

ハンカチの木という中国のある特定の地域でしか生育していないという植物。
アボガド大の謎の実がなっていてとても気になったのだけど、
近づけないよう囲ってあったのでぐるぐる巡回しながら地団太を踏んだ!

ぽくんとぶつけたのか、見事にこぶが生まれていました。
鼻にもへそにも見えるので写真に落書きをしてみると楽しいでしょう。
私は小人になってこのこぶの上で昼寝をし、伸びをする自分を見ました。
もしかしたら虫こぶだったりして…ぎゃあああ。

諸星大二郎その1、夜になると歩き回るようです。

諸星大二郎その2、近づくと人を食うようです。

地味な樹が続いたので映りこみも美しい池を、橋の上から望みます。
ぽこぽこ山は恐らくツツジだろうから5月頃は一層鮮やかなのでしょう。

虎視眈々と食べ物を狙うのは豊満なからだつきの鯉たちです。
口元の折り畳みの仕組みについてしゃがんで観察していたら、
東大総合研究博物館の閉館時間になってしまった。
また別の花も開くだろうし近いうちに来ようと思います。

リリア-4-ever

ユーロスペース、トーキョーノーザンライツフィルムフェスティバル最終日。
ルーカス・ムーディソン監督の「リリア-4-ever」を見にゆく。
私はこの映画を見て2、3日は食欲がなく、まともに寝ることも出来なかった。
剣山を飲み込んだように体の内側がギザギザに傷だらけになった。
今も事あるごとに沁みて傷の存在を主張する。
社会派青春ドラマの傑作なんて銘打ってあったから、
生き生きした瞳の女の子を想像していたら。
皆まさかこうまで重い話とは想定外だったのだろう上映後の場内は静まり返っていた。


「性的搾取の犠牲となるすべての少女達に捧げる」と最後にあった。
親に棄てられた16歳のリリアが、
生きていくために、ただ生きていくために、もがいて幸せを追う話。
私が息詰まりそうになるのは、
救いがないところと実際に起こっている現実だという事である。
この題材で作品として素晴らしくよく出来ていて、
尚且つ傷の癒えない今の私を見ても思惑は圧倒だな、と思ってしまう。
例えば「闇の子供たち」という映画も良くできていたけれど、
あれは誤解を恐れず言えばサービス精神旺盛なエンターテイメントでもあった。
リリア-4-everは一人の女の子に特化して全てを映し出している。
天使の羽をつけて軽やかに舞うリリアは自己の扉を崩壊して開放させた。
それでこそあの目の深い悲しみの色と表情であった。
リリアを演じた(もう演じたという概念が吹き飛ぶほどなんだけど)
オクサナ・アキンシナは当時15歳とのことで、とっても可愛い子だった。


「家のない少女たち」という本を以前読んだことがある。
それは日本の裏社会と性的搾取の事実が書いてあるのだけれど、
映画と全く同じなのだった。
親に愛されなかった子達が求めるのはひたすらな愛で、
それを目敏く捉えては巧みに絡め獲って生きた玩具にするのだった。
自分の想像を絶する事実に言いようのない恐怖がどんどんつのり、
事事物物が足下から崩れてゆき、
ものすごく落ち込んだ。
でも、それ以上に映像で迫る凄まじさを今回は思い知った。
私の中に入り込んだ剣山は何らかの形で外に出してやらなければならない。


このリリア-4-everではデヴュー前のt.A.T.u.の音楽が象徴的に使われている。
今までt.A.T.u.に興味を持ったことはなかったけれどよく合っていた。
同年代の女の子達の熱気がむわっと噴出するああいうロックが、なんとも。
ムーディソン監督は結構な音楽好きだということだったのだが、
影響を受けたものというのが1にthe cure、2にスミス、
とんで7番目にデヴィット・リンチだったかな?
ぼんやりとそれらのフィルターをだぶらせてみるとなるほど分かるような気がする。


北欧の劇場未公開作品が多く集っていた本年のトーキョーノーザンライツは、
観たいものばかりで楽しみにしていたのだけど、
自分自身のバイオリズムの低迷によって多くは阻まれるという結果に。
特に柳下毅一郎トークショウ有りの「アンチクライスト」に行けなかったのは、
かえすがえす残念だなあ。

Perefect Moment

いつぞや閉館間際にすべり込んだ東京オペラシティアートギャラリーにて。
曽根裕展「Perefect Moment」を見て来ました。
現在メゾンエルメスにも出展されていますが、大理石の彫刻シリーズが良かったです。
樹氷のようで美しかった木漏れ日を体現した作品などは、
刹那的一瞬を切り取って出すことで別の世界を垣間見ているような感覚になります。
おそらく遥か上空から見た都市…を掘り込んだ作品は巨大な船のようにも見えます。
通して、自分の時間の概念や、物との距離を掴もうとする意識が曖昧になって、
根源の沼にぽちゃっと落とされたようでした。
そしてそれは生理的に気持ちの良いものでした。


ゆとりがあったので上階の吉田夏奈展も見ることができました。
何十メートルにも及ぶ北アルプスの山々から始まる風景。
これは…ものすごいです。
私も登山をするので、見た瞬間「この人は山を登る人だな」と思いましたが、
やはりそのようでした。
作品は絵画ではなくてどちらかと言うと漫画・アニメに近い印象でした。
登る自分が溶け込んでいて、風景を見て描く絵ではなかったからです。
意識は山と渾然一体となり、自分だけの感覚で再構築されるのが登山です。
だんだんと自然界では現れがたい色彩に移行していくところからも、
(勝手な感想ですが)破壊衝動や恐れが見え隠れするところからも、
絵でありながら起承転結がありました。
いや、結はなく、承転が小気味良く繰りかえされて行くのでした。
吉田さんの書かれたテキストがすごく良かったので転載します。

危険を伴う秘境のなかに身を置き、
その場所が自分の美しいと認識する感覚を超えたとき、
ある種のパニック(=ショック)状態に入る。
そういった初体験の場所では、そこが美しいと感じるよりもむしろ、
恐れや不安を感じる場合の方が多く、
潜在意識で知覚し始めようと私の脳は働き始めてゆく。しかし時間が経過すると、
パニックを受けたその場所は自身の過去最高に美しい場所として
私の脳に新たにインプットされる。
そのような意識の拡大を私はBeautiful Limitの拡大と呼んでいる。

http://www.operacity.jp/ag/

馬橋稲荷

天気がすっきりした晴れだったので自転車で馬橋稲荷神社へ行ってみました。
ちょうど高円寺と阿佐ヶ谷の間に現れる、小さくはない神社です。
この辺りは張り巡らされた細かい路地に区切られて方向感覚が狂いそうになります。

鮮やかな朱色が美しい一の鳥居、樹齢400年の檜葉の材でできているそうです。
ここから社まで思いのほか長く続くので、
鳥のさえずりなど聞きながらほてほてと歩いていたのですが、
後になってから初めて知った事実がひとつ。
それは、神道は神様が通る場所なので真ん中は避けて歩くということでした。
考えてみれば字面からして納得なのですが、特に今まで意識した事もなかった。

立派なお狐様です。
狐は、昔話なんかだと狡猾なイメージで捉えられることが多いですが、
きりっと賢そうな面持ちで背筋がしゃんとしていて私は好きです。

あの厳かな様子、どうもそれは目ヂカラにあるらしいと思われる。
歌舞伎の女形だとか日本人の描く艶かしい美女とは
いつもこう切れ長で伏し目がちな風で、近づきがたいような妖しさを放っている。
まあ、実際の狐は鋭くも大きな目ン玉をしているのだけどね。


ところで馬橋稲荷神社のHPは非常に丁寧に作ってあるので驚きました。
地名の由来や、高円寺駅阿佐ヶ谷駅が中央線に生まれた経緯など興味深い。
東京の西は歴史が浅いといいつつも、
市井の人々の小さな歴史が積み重なっている所が面白いです。
http://www.mabashiinari.org/

包む


小学生の頃大好きだった福音館書店の月刊「たくさんのふしぎ」に、
「草と木で包む」という本があって私はそれをとても気に入っていました。
表紙に出ている卵を藁で包む卵つとや、笠を二つ折りにしたような鯛の包みなど、
なんてきれいで楽しいんだろうと見るたびにわくわくしました。
確か五又の葉で各自包まれたお団子の写真のページには、
「ほら、枝からそのままもぎ取ってきたみたい」なんて書いてあったと思う。
自然に還るものばかりでごみが出ないし、
何よりマテリアルを生かした無駄のない形なのが素敵だと思っていました。


それらを実際に見られる展示と知って開催を心待ちにしていたのでした。
目黒区美術館「包むー日本の伝統パッケージ展」、本当に面白かったです。
木、藁、竹、土、紙、などに分けられていましたが、
木の皮そのものを使うものから始まり、
それを精製した紙にたどり着くのですから流れとしてもよくできていると思います。
特に竹のしなやかさに感動しました。
竹の節や縦に割れる性質を上手く利用して繊細な包みが沢山生まれるのですね。
皮は布のようで柔らかく包むことができるし、
つややかな天然のワックスと香りがおまけについて実に美しいものでした。


多彩で面白かったのが藁。藁は細いひも状なので、
組み合わせれば液体以外どんな形でも包んでしまえるのだと知りました。
丸い卵でも納豆でも生魚でも…米や墨のように大きなものでも。
稲穂のまま用いたお酒の包みは並ぶと黄金色の田んぼそのものです。
またそれぞれの編み方や並べ方がミニマルを孕みつつ意外なので、
どうやって包むのか教わりたい!

卵つとのワークショップが在るようですが参加できないのが悔やまれます!


この展示は各地方のお菓子や手土産が好きな人にも楽しめると思います。
紙のブースでは京都の一保堂茶舗はじめ素敵なパッケージが沢山見られます。
ああ、楽しかった、そして食べ物の包みが多かったのでお腹いっぱいの気分です。

花・太陽・雨ときどき雪

沈丁花が芽吹いて、梅の花を見に出かけて、2月も半ば。
もう私は「そこをゆくのはお春じゃないか」と声をかける心づもりでいたのに、
今になって雪がどっさり降るとは夢にも思わなかったのです。
年末年始に実家で雪の毎日を送ったので、
もはやありがたみより寒さにがっかりしてしまうのでした。


けれどここ東京で、夜が明けると一面きらめく銀世界というのは新鮮です。
いつも塀の上で丸まって寝ている野良猫は、今日はどこで丸くなるのだろうか。
水気の多い雪はぼたぼたと肩にかかるごとに重さが伝わるよう。
これならきっとすぐに溶けて水に変わることでしょう。
猫どもはまたじきに陣地に戻って集会を始めることでしょう。
そして、バレンタインデイを控えた雪の降る日に、
思いをこめてお菓子をこしらえている女の子たちがいるのかなと思うと、
心もほかほかしてきます。

雪玉のようにふかでふかつるりとしたこの物体は、万頭です。
上町・鹿港の黒糖万頭は冷めていても美味しいので雪見おやつにぴったり。

胡桃を山盛り頂いたので、それをふんだんに使ったバターケーキ。
美味しかったので今度は誰かにおすそ分けしようと思いました。

コーヒーケーキを焼いた日もありました。
アーモンドプードルとひまわりの種とでナッツ・パラダイスでした。

今年のバレンタインにはベイクドチーズケーキを作りました。
小麦粉ゼロなのでスフレみたいな柔らかさで、
サワークリームがたっぷり入っているために見た目より軽いのです。
ムーミン谷の住人に見守ってもらって熟成させたケーキです。

もう一つはトリュフです。
でこぼこ岩山のようなのはロックを聴きながら作ったせいです、おそらく。
隠し味にビター・キャラメル・リキュールが効いています。


みんなが優しい気持ちになれる幸せなバレンタインを過ごせたらいいです。
本当は毎日がそうだといいと思います。